勝手に・シネマ・パラダイス/第11話『ミニシアターは大人の階段だったの巻』

前回の第10話では、梅田周辺にあった「大箱」と呼べるような大きな映画館の梅田ピカデリー、梅田東映会館の思い出をお話致しました。時は1990年代になります。1980年代と言えば、バブル景気で日本中がお祭り騒ぎでした。テレビをつければ「トレンディドラマ」が大流行をして、世の中が浮かれまくっていた時代です。ただ、私はまだその頃は学生なので、バブルの恩恵のようなものは一切受け取っていませんでしたが、大人の世界は我が世の春を謳歌していた時代です。今回は、そんな時代に登場した『ミニシアター』の思い出をお話させていただきます。ご興味いただけたら読み進めていただけると幸いです。

1980年代と言えば、以前にも書きましたが、ハリウッド大作の何度目かの黄金時代だったと思います。次から次へと新しいスターが登場して、映像技術も進歩をしていき、世界を驚かすエンターテインメント映画を大量生産しておりました。本屋に行けば、『ロードショー』『スクリーン』といった洋画専門誌が人気を博しており、洋画専門誌と言っても今から考えれば『平凡』『明星』といった日本のアイドル雑誌を同じような感じのハリウッド版アイドル雑誌みたいだったと思います。それぞれに毎月人気投票があり、男性ではマイケル・J・フォックス、トム・クルーズ、女性ではリー・トンプソン、ジェニファー・コネリーなどアイドル的人気がありました。まだまだ気軽に予告編が見られない時代ですので、そのような雑誌から最新作の情報を得ておりました。もちろん、立ち読みです(笑)。

そんな1980年代がから1990年代にかけて、所謂ハリウッド大作以外の映画を上映する映画館が登場します。それが現在も活躍する『ミニシアター』と言われる劇場です。それまでは、現在の当館のように少し遅れてロードショー作品を上映する『2番館』と言われる映画館はたくさんありました。『名画座』とも言われ、各劇場の個性が出た二本立てで、多くの映画ファンが足繁く通ったものです。『ミニシアター』は『名画座』の流れを汲みつつも、基本的には最新作を上映しておりました。映画と言えばハリウッドしか知らなかった私に、世界中にはまだまだこんな映画があるのかと、より深く映画の世界の扉を開けてくれたのもミニシアターでした。1990年代は、梅田周辺にミニシアターが幾つかオープンされていきます。記憶では数年の間に、トントントンと開館していった印象がありますが、これまた記憶が諸々と曖昧ですので、先にお詫びいたします(苦笑)。

初めて、ミニシアターを意識した映画館は、梅田にあった『シネマ・ヴェリテ』でした。場所は、ナビオ阪急から徒歩5分くらいで新御堂筋沿いにあり、現在は確か大人の飲み屋(意味深…)になっております。薄暗い階段を下りた所に劇場があり、座席数は100席も無かったように思います。入り口はライブハウスのような感じで、なんか入って良いのか悪いのか躊躇してしまう雰囲気だったと記憶しております。当時はまだ学生で、この様な大人な場所に行ったことがなかったので初めて行った時はとにかく緊張しました(笑)。確かロビーらしきロビーはなく、長机のような台の上にたくさんのチラシが乱雑に並んでいました。新作映画のチラシの中に、自主上映会のチラシや映画論評の小冊子のような物もあったと記憶しております。自主映画や自主上映会など、今までに触れたことのない自分の知らない場所で独自の映画文化があることに驚きました。『シネマ・ヴェリテ』に集うお客さんもなかなか個性的な方が多かったと思います。もしかすると普通の人だと思うのですが、まだ10代の自分には周りの人々が皆別世界の大人に見えたものでした。

初めてオールナイト興行に行ったのが『シネマ・ヴェリテ』でした。三本立てでしたが、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』『ガス人間第一号』『マタンゴ』というトラウマ級の三本立てでした(苦笑)。1本目の『恐怖奇形人間』で頭がクラクラして、後の2本も脳内がグルグル揺れた状態で見たことを覚えています。すべて見終わると早朝で、地上に上がって空を見上げると、強烈な3作品のお陰で朝日が黄色に見えました(笑)。『シネマ・ヴェリテ』はその後、『シネ・ヌーヴォ梅田』と名前を変更して、しばらくして閉館されました。そして、場所を大阪市西九条に移して再びスクリーンに灯をともしたのが現在も活躍中の『シネ・ヌーヴォ』です。『梅田』閉館と西九条開館の時期はどうだったかな?ちょっと曖昧です(苦笑)。『シネマ・ヴェリテ』が、どれくらいの期間運営されていたか詳しくわかりませんが、5年くらいだったような気がします。

『シネマ・ヴェリテ』と同時期にもう一つ個性的なミニシアターがありました。前回第10話で登場した梅田東映会館のすぐ隣のビルの中にあった『シネマアルゴ梅田』というミニシアターです。現在、北新地の入り口にあるこのビルは飲食ビルになっております。この劇場の成り立ちは、1980年代後半に、日本映画に新しい風を巻き起こそうと数人の映画プロデューサーが集まって『アルゴ・ピクチャーズ』という会社を作り、そこで製作された作品を中心に上映する専門館として出発した映画館でした。『アルゴ・ピクチャーズ』は、『櫻の園』や『十二人の優しい日本人』や『ヌードの夜』などの優れた作品をたくさん世に出し、90年代のミニシアターブームに一役買った存在でした。そんな経緯で作られた『シネマアルゴ梅田』ですが、なんか突然登場した映画館という印象でした。と言うのも、この『シネマアルゴ梅田』という劇場は、は元々日活ロマンポルノを上映していた成人映画館の後に入った劇場だったからです。ですので、初めて劇場の名前と場所を聞いても、「東映会館の隣?あのビルに映画館?」という感じでした。雑居ビルの階段を上がったところに劇場があり、元々成人映画館だったためかロビーが狭く、上映まではよく外の階段に並んでいたことを覚えています。劇場はとても小さく、お世辞にも綺麗な映画館とは言えなかったです(苦笑)。しかし、劇場の成り立ちが映画プロデューサーたちの熱意から来るものだったこともあり、とても尖った企画上映が多かったと思います。石井輝男やATG作品を見てぶっ飛んだ思い出があります。『アルゴ・ピクチャーズ』製作の作品だけでは上映本数が足りないので、このような企画上映やミニシアター系の新作なども上映しておりました。その中で、ある映画を見た時に忘れられない光景を見ました。

1996年に公開されたティム・ロビンス監督、ショーン・ペン主演『デッドマン・ウォーキング』という作品を見た時でした。この作品は、死刑囚とシスターの物語なのですが、とにかく重くシリアスな作品でした。上映が終わり、場内が明るくなっても、椅子からなかなか立ち上がることができず、やっとの思いで椅子から立ってふと前の座席を見ると、今まで気が付きませんでしたが、私の前の座席にはシスターが4人座っていました。私は、出口に向かおうと何気に前の座席に目が行くと、その4人のシスターが、静かに目を閉じて両手を胸の前で組んでスクリーンに向かって祈りを捧げていました。あの光景は一生忘れられないと思います。『シネマアルゴ梅田』はいつの間にか閉館されていました。私の中では、『シネマアルゴ梅田』は、突然登場して、知らないうちに去っていった映画館でした。どなたか『シネマアルゴ梅田』の最後をご存知ありませんか?(笑)

それまでは大きな映画館で超大作ばかり見ていた自分が、また新たな映画の楽しみを知ったのがミニシアターでした。それはまるで大人の階段を上るようでした。と言っても、実際はまだまだ子供が必死に背伸びをしていただけですが(苦笑)。それでも、年上の個性的な人たちと同じ空間にいるのはとても刺激的だった思い出があります。もう少しミニシアターや個性的な劇場がありましたので次回もこの辺のお話をさせていただきたいと思います。次回、第12話は『映画館は教室で、映画は教科書だったの巻』です。

営業再開までもうしばらくお待ちください。また皆様と当館で再会できることを楽しみにしております。それではまた・・・。